天守はいつ建てられたのか? 【犬山城シンポジウム ルポ】 Vol.6





犬山城シンポジウムのルポ、6回目です。


もう飽きてきた?


いやいや。

もう少し続けますよ!


だって、

盛りだくさんだったから。



ということで、今回のテーマは、


『犬山城天守の謎と新発見』



名古屋工業大学大学院教授の
麓 和善先生!


この先生、すごい人なんです。


ってか、この方のゼミの歴代の先生方もすごいんです。


何がすごいって、

建築史の第一人者で、

内藤先生、城戸先生という大御所が見えたのが名古屋工業大学。

日本における城郭建築史を常にリードしている大学。


という、すごい先生の、すごいお話し。


ちなみに、犬山城城郭調査委員会の委員長も務められています!





◆ 天守創建年代は、もうわからない?


いきなりセンセーショナルな話から入りましたよ、この先生(笑)


内藤先生や城戸先生という大御所が、犬山城の創建は天文6年ごろという説を出されていました。


昭和の解体修理によって、

美濃金山城移築説は完全に否定され、


①1・2階は、天文6年(1537)ごろ、織田信康によって創建
②3・4階は、慶長5年(1600)、小笠原吉次によって増築
③3階の唐破風、4階の廻縁と高欄は、元和元年(1620)ごろ、成瀬正虎によって改築


という説。



これ以上の成果はでない!


というのが麓先生の当初の見解。



でも、それでも、何かしらの研究はせねば、ということでスタートしたのだとか。



えらい話ですわ(笑)




そりゃあ、大先輩の研究成果を否定するようなことにはできないし、

新たな発見って言っても、

解体修理以上のことなんて、確かに出るはずもない。



大変な仕事を請け負ったものです。



でも、先生は別の視点から研究されたんですね。

その辺りが、すごい!





◆ なぜ、望楼型なのか?


それは、石垣に答えがありました。


石垣の平面図を見ると、正方形じゃないんです。


台形のような形。


東側が、南に向かうにつれて広がっています。


もっとわかりやすいのが、1階の平面図。




図で言うと、右の下側。

広がってますよね!



これ、こういう形にしかできなかったんです。

当時は。


何でかって言うと、

石垣を方形に積む技術がなかったから。



石垣の技術は、慶長のころが最盛期。


それ以前は、きれいに積むことができなかった。

だから、犬山城の石垣は古い技術ってことになる。


これが、慶長年間に創建されたことにはつながらない一つの理由。



で、石垣がきれいな方形をしていないと層塔型天守は建てられない。

それについては、以前ブログで書きましたので、

そちらも参考にしてください。

だから、望楼型。

少なくとも1・2階が古い時代に建てられたということの証拠でもある。


そんなお話でした。




◆ 木組みが古い!


次に、先生がお話しされたのは

木組み。


天守架構図を他の現存天守、現存櫓と比較するというもの。


それを見てみると、


犬山城は、初期望楼型として
架構の視点からも古い!


ということが言える。


ここは解説が難しいから飛ばします。

しかも図が複雑すぎて、しっかりとはわからなかった( ;∀;)


このあたりは、いつかわかりやすい本が出版されると願いましょう( ´∀` )




◆ 柱の加工がおもしろい!


最後に、柱の加工の痕跡について。

こんな話は聞いたことがないので、とても新鮮でした。


木を切る加工技術の進化の過程を辿っていくと、

天守の建築年代が大凡わかるらしい。


木を横に切るのは比較的簡単ですが、縦に切るのは難しい。

柱とか梁とか、縦にずーーーーっと切らないといけない。

これには道具や技術が伴わないといけないようですね。


昔は縦にずーっと切るのはむずかしいから、割っていたらしい。

割った面は凸凹になるため、「手斧=ちょうな」という道具である程度の平滑な面にしていた。

さらに進むと、「槍鉋=やりがんな」や「大鋸=おが」という道具が出てきて、

そういったもので表面をきれいにしたり、切ったりしていたそうです。

その後、さらに道具の進化があり、「台鉋=だいがんな」のようにキレイな加工ができるものになっていくようですね。

この辺りは、大工さんじゃないとわからないでしょうし、

現代は機械で切るので、大工さんでも知らない方もいるでしょうね。



で、犬山城の場合、

1・2階は、
「ちょうな」、「やりがんな」、「大鋸」の
粗い加工痕が残っている。

こういうやつ ↓

(写真:たかまる。)



一方で、3・4階は、
「やりがんな」、「だいがんな」の
平滑な加工面が主。

こういうやつ ↓

たぶん(笑)

(写真:たかまる。)



ということは、

1・2階までは、大工道具や技術が古く、つまり、

創建年代が古い

ということが言えると。


どこまで古いかというと、

およそ室町時代末。

それぐらいまで遡っても良いというのが、麓先生の見解。




これ、サラッと言ってましたけど、

とんでもなく凄いことのように思います。


だって、室町末ってことは、

1500年後半。

ということは、織田信康が建てたって説を裏付けることになる。

やっぱり、その説が有力そうですね。



ただ、麓先生曰く。

もうこれ以上の検証は無理とのこと。

史料も現物も調べつくされた。


あとは、柱の年輪を調べて特定するしかない由。



ま、そんなことできるかどうかはわからないけど、

楽しみは取っておきましょうか(笑)




麓先生、興味深いお話し、ありがとうございました!



ということで、今回はここまで!











第1回から第5回までのルポは、こちら ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

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